それぞれの思いそれぞれの思いTOPへ

仙台東部地域綿の花生産組合 副組合長 渡邉 静男 さん

津波の最初から最後までの約30分間見ていました。想像を絶する光景でしたー

荒浜地区は、深沼380世帯、新興団地400世帯、約800世帯が流出し、187名が亡くなりました。私は3月11日、荒浜小学校3階の踊り場に避難して、コブラのような津波が襲って何もかも飲み込み、仙台東部道路に至るまで、津波の最初から最後までの約30分間見ていました。想像を絶する光景でした。私の家も、6町5反あった田んぼも、建屋もすべて流されました。

その後海水をかき分けて2時間ほど歩いて中学校の武道館に収容されそこで1ヶ月、その後サンピアという施設に移り約1ヶ月避難所生活をおくり、その後JR東日本の社宅だった仮設住宅に引っ越しました。そこで、赤坂さんから綿花の話を聞いたんです。

赤坂さんとは、奥さん同士が昔から荒浜の青年団の仲間で、それぞれ結婚してから20人くらいで、家族ぐるみのお付き合いをしていたんです。私は妻の家に入ったんですが、農家で稲作の手伝いがあるので、時間の自由が利く仕事をということで、必然的に商売を選び、建設コンサルタントの会社をしています。赤坂さんはイーストファームみやぎを立ち上げてがんばっているし、私は私で会社を経営していたので、話も合うというかな、いい仲間だったんですね。

やっぱりトラクターに触ると、生き生きするんだね、気持ちが。

最初は土地を貸してくれという話だったので、いいですよと気軽に受けたんです。でもそのうち、そんなこと言わずにひとつみんなでやろうじゃないか、という話になったんですね。自分ははっきり言ってショックが大きくて、全然やる気がないというのが本音でした。それでもトラクター持ってくるから、田んぼ耕してください、これやってくださいと言われてやりはじめたんです。でもやっぱりトラクターに触ると、生き生きするんだね、気持ちが。

面白いもので、耕耘して、蒔いて、育てていけば、人間の本能でいいものを作りたいと思うようになり、綿にどんどんはまっていったんです。逆に言えば、はめられたっていうかな。白い花は咲く、ピンクの花が咲く、可愛いもんですよ。綿に惚れたんだね。

こんな大きなプロジェクトになるというのは、誰も夢にも思っていませんでした。ただあのときは、これをやれば朝起きたら何かしら出来る、というのが大きかった。仕事もない、何もない、手足も出ない状態でしたから。そんな中で生きる力を作ってくれたんだね。私も思っているけど、被災した人は、そういう気持ちがあるんではないかな。

いいものを作って、消費者に届けたい。そうすれば、この荒浜の歴史が、集落が、生き返ると思います。

ただ、ずっとボランティアというわけにはいかない。みんな生活もありますから。被災直後、何かせねばならないという気持ちが一年間持続してきました。もし昨年始めていなかったら、一年半経った今、さあやるぞといってもあまり気持ちがのらない気がします。このプロジェクトも3年ずれたんじゃないか。事業の収支を考えると、農業を再生するにあたって3年くらいが勝負だから、ここ一年が一番大事なところだと思っています。

正直今は、誰かが支援してくれるという甘さがどこかにあるんですよ。それじゃ駄目なんだ、事業化して、自立出来る方向に進もうと話し合い、これから農業生産法人を立ち上げる計画をしています。ただ作業すればいいというのではなく、農業の再生にあたってどういう風にやっていくか、農業生産法人のノウハウなど、今勉強しています。去年の今頃とは、まるっきり考え方が変わりましたね。

被災された農地の再生というキーワードを持って、綿を荒浜のシンボルマークにしたい、というのが私の考えです。ここに綿があることを、製品として普及させて全国ネットで広めていきたい。なんとか200町分くらい、集落にも組合にも綿を作ってもらいたい。後の100町は稲作を復旧して、所得の上がるような形を作っていきたいというのが本音です。ただ支援してもらうだけじゃなくて、いいものを作って、消費者に届けたい。そうすれば、この荒浜の歴史が、集落が、生き返ると思いますよ。何か誇りを持っていないと、やる気出ないよ。必ずやります。5年後にはものすごくいい形になっていると思いますよ。

(2012年6月6日)