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仙台東部地域綿の花生産組合 佐藤 善則 さん

家は何もなくなったけど、デジカメのメモリ一杯にデータが残っていたんです。

生まれてから60年、ずっと荒浜に住んでいました。親父が少し米や野菜を作っていたけど、田んぼはほとんど委託していました。百姓で食べられるような広さはないし、自分は高校を出て製缶工場に勤め、ずっとサラリーマンです。ちょうど震災の年が定年退職の年でした。

たまたまその日は非番で家にいたんです。地震はすごかったけど、家はなんともなかった。でもその時点で停電になり、防災無線も駄目だったので、津波の情報もなかったんです。最終的に津波到達10分くらい前に車にみんなを乗せて逃げました。荒浜小の方は車が満杯で、そのまま七郷中学校に行き、グランドに車を止めて校門の方を見たら、田んぼに水が押し寄せていて、初めて津波なんだ、と思ったんですね。

でも心のどこかに一縷の望みがあって、俺の家は大丈夫だって思っていたんです。翌日渡邉静男さんに会ったら、佐藤さんの家は一番最初に流されていましたよと言われ、がっくりしてしまいました。1週間後に見に行って確認したときは、涙がぽろっと出たけど、これは駄目だと腹を括りました。幸いに家族全員6人が無事だったから、それが一番の宝物ですね。それがあったから、今でもこうやって綿も作れるしね。家は何もなくなったけど、家内が何故かデジカメだけ持ってきたの。そんなもの、現金を持ってくればよかったのに、なんて言ったけど、そのデジカメはたまたまメモリ一杯にデータが残っていたんです。今から思えばそれもよかったのかもしれないね。

俺も百姓を、少しでも出来るんだなって、初めて自信持ちました。

七郷中の避難所では、静男さんのところとうちがちょうど前後ろだったんです。静男さんの奥さんとぼくは小学校の同級生だったんですよ。その晩、静男さんは一晩荒浜小学校に入っていたから、安否がわからなくて奥さんが一晩中心配していてね、俺は大丈夫だよって励ましてたんだ。それで翌朝ちゃんと帰ってきて、あのときはほんとにうれしかったよ。

その後サンピアに移り、そこで初めて綿の話が出たんですね。俺が会社を辞めたことも知ってるから、一緒にやりませんかって。最初は綿花って言ってもピンと来なかったけどね。農業自体も知らないから。

今年、綿を植える前のマルチ、あれをかけたの俺なんですよ。どうせ元々素人だからやってみろって。操作を教えてもらって、毎日機械に乗ってやりました。綿は人間関係もいいし、話しやすいし、働きやすいんですよ。否定もなにもしなかったからね。曲がってもいいんだ、間違ったらもう一度やりなおそうって、みんなそういう考え方なんだね。かけ終わったのを見ると、すばらしいよね。ちゃんと機械がやってくれるから、私にも出来るんですよ。初めて自分で納得したというか、俺も百姓を、少しでも出来るんだなって、初めて自信持ったの。うれしかったね。

目標という言葉が好き。希望は思う気持ちだけど、目標は自分で実行出来るから—

今は俺も環境変わってね、4月に家を買ったんですよ。そこから綿に通っているんです。みんな軽トラで来るのに、乗用車で来るのはおまえだけだ、サラリーマンの考えから変わりないなってみんなに馬鹿にされるんですけどね(笑)。

家を買うのは、サンピアにいたときから構想を持ってました。最初はうちの家族もびっくりしましたよ。息子には早すぎると言われましたが、いや、早いほうがいいんだと。家族を抱き込んで暖かいファミリーを作る、それが俺が目標にしてたことだから。

俺ね、目標っていう言葉が大好きなの。希望っていうのは思う気持ちだけど、目標は自分で実行出来る、そう俺は思っているの。復興するのに自分は何を実行するのか。家を買うんだ、田んぼをやるんだ、でもなんでもいいと思うんです。

先に自分の家を持てたから、生活にすごく張り合いがあります。これが出来たから、今度は綿に専念にしようということです。これから、楽しみですよ。

(2012年6月5日)