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仙台東部地域綿の花生産組合 貴田 勝彦 さん

もしそこにいれば、何人か助けられたんじゃないのか。それが頭から離れない—

大学で解剖学を40年間やっています。3月11日も大学に行っていたので、被害を近くで見ていないんです。友達や親戚の方も亡くなり、飼っていたペットも助からなかった。もしそこにいれば、何人か助けられたんじゃないのか。それが頭から離れないんです。そこにいなかったということがずっとトラウマになって、ずっと放心状態でした。そんなとき、避難所でメンバーの佐藤正巳君と会って話をしたんです。自分たちは、何かの運命で生かされたんだなって。これから多少何かあったとしても、私はもう70歳近いですし、生きても後何年かですよね。せっかく生き残ったので、生きている間は精一杯やりましょう、と彼と話しているうちに気持ち的に立ち直ったというか。それで避難所のリーダーをやりながら、生活をしてきました。

荒浜の名前を残す手段として、農業の再生をめざす。僕が思う荒浜の復興と合致した。

避難所では会長代理をしていたので最後まで残り、そのあとにJR仮設住宅に移りました。ここでも町内会の役員になりまして、そこで松木君とか静男君とか、綿のメンバーの人たちと知り合いました。最初は、僕はカメラが好きなので、記録的な要員として写真を撮ってくれと言われ、それで参加したんです。町内会の仕事も忙しかったですし、それだけのつもりだったんですよ、実は。そのうち、みんなが大変そうだったので手伝いとしても参加するようになり、そこで改めてメンバーの人たちとじっくり話して、彼らの思いが、僕の思いと非常に共通とすると思ったんです。荒浜という名前を残したい。そのひとつの手段として、農業の再生をめざしている。僕が思う荒浜の復興と合致したんですね。

みんな地震前は顔見知りではあるけど、ほとんど話をしたことがなかったんですが、メンバーを知れば知る程、自分自身ももっともっと本気になって参加したいと思うようになりました。みんな人間性がいいんですよ。

組合に入るつもりはなく、あくまで縁の下の力持ち的でいようと思いましたが、自分が出来る事を出来る限りやろうと思い、組合メンバーになりました。農業はほとんどわからないので、一回り以上年の離れたメンバーに「じじい、はやく動け」なんて言われながら働いています(笑)。みんな僕にないものを持っているんですよ。自分は大学に勤めていて、どちらかというと指示を出す方だったから、新しい所で新しい経験をして、ああしなさい、こうしなさいって言われることが、新鮮なんです。段取りが悪いのは自分でわかっているし、下手だけども、仕事をマスターしたい。大変ですけど、充実しています。今、楽しくてしょうがないんですよ。

綿花のことを地元の人に知ってもらいたくて、ブログを始めました。

東北コットンプロジェクトは、こんな状況の中で立ち上がって、それがなんであってもプラスになると思います。いろいろな形で、多くの企業に声をかけてもらっているので、我々ができないことをやっていただける。結果的には我々が主人公にならないといけないけれど、その道筋というか、きっかけづくりをしてくれたと思います。私としては、もっと参加人員が増えてほしいんです。知人に教えてもらって「キダじいのブログ」というのを始めたんですが、それも綿花のことを地元の人に知ってもらいたいから。みなさんに見ていただいて、コメントを頂くと本当に励みになります。地元の人達も目を向けてくれるようになって、なんとか少しずつ広めていきたいな、と思います。結果的にそれが荒浜再生の力になるんじゃないでしょうか。

今まで自分が生きたものとは別の人生観が与えられたと思っています。いい仲間に出会ったのが転機でした。神様の引き合わせですかね。そういう意味では、幸せです。

(2012年6月6日)